T燕市産業の起源と変革
燕市産業の沿革

燕の地場産業は江戸初期時代から始まり、越後の燕は和釘づくりの町として知られ、江戸末期のころは福井県小浜市と並び和釘の産地として全国的に有名でありました。

燕産地の金物づくりの金工技術は、それぞれの時代の変遷を経緯してきた伝統産業は和くぎを始めとして銅器、やすり、きせる、矢立、灰ならし、火箸(ひばし)等家庭の生活用品を主体とした金物づくりに対処して、常に改善改良の工夫に取組み、幾多の困難と苦労の中に技術の改良をはかり代々継承されてきました。

産地基幹産業の金属洋食器(以下洋食器と云う)を始めとして、戦後新産業として開発された金属ハウスウエアー(以下ハウスウエアーと云う)は産地の二大産業として内外にその実績を挙げ、両業界とも燕市に本部を置く全国組織の工業組合設立する程に発展するに至りました。

而し乍ら両業界ともここ数十年来の海外後進国の生産増加の追上げと、円高為替相場と共に輸出競争力は低下し、一部高級品低級品は輸出されているが、全体としては年々減退しており、国内市場にその需要開発に努めております。

燕市産業界はステンレスを始め各種金属の複合加工基地として、全国的にも追随を許さぬ、伝統的金工技術と技能を有しており、現在ゴルフクラブ、自動車部品、医療器具、建築金物器具、カーブミラー及び交通器材その他各分野、業種に進出或は転換をはかり、昨年度の燕市の総出荷額2000億円以上に及び産地産業は更に一層の新分野開拓にその活路を展し、伝統的バイタリティーを発揮して今後の進展を期しています。

これから3年後に迎える世紀の新情報時代に対応すべく政治、経済、社会におけるあらゆる機構は構造改革の時代、産地産業としても産業改革を達成し、新製品の開発、新分野、新産業の開拓が強く望まれるところであり、新しい英知と創造、産業活力の集積をもって地場産業の発展を期待するものであります。


和釘(わくぎ)づくり

徳川幕府ができて間もない寛永年間(1624年-1644年)のころ、当時この地域は幕府直轄の天領として出雲崎陣屋の管轄であった。この陣屋の代官大谷清兵衛と云う人が、燕郷地域がたび重なる信濃川のはんらんによる水害で困っている状況を救済するため、江戸から和釘(わくぎ)職人を呼んで、農家の副業として和くぎづくりを地域に広めたのが始まりでありました。

依頼和釘づくりが燕郷を中心として盛んになり、当時の釘鍛冶職人は1,000人以上に及び、その製品の大部分は燕・三条の問屋を経由して江戸に運ばれ、江戸の町づくりに使われたと云う。特に明暦(1657年)の江戸時代の大火の時は、燕の和釘が災害復興に大変役立ったといわれています。

この和釘づくりも明治維新の開化により、外国との交易が盛んになり、外国から洋釘(現在のくぎ)が輸入され、更に明治27年の日清戦争後は国内に於いて、洋釘と同じものがつくられ、急速な時代の変化により和くぎの需要がなくなり、一時は木造漁船用及び和タンス等に僅かに使用されたが、それも時代とともに自然消滅しました。

依て多数の和釘職人は釘づくりの生産工法を基本にして、それぞれの業種の分野に応じて、物づくりの製法の改善改良の苦労と工夫をつづけながら、農工具(くわ、すき、かま)や生活用具として矢立(やたて)火箸(ひばし)灰ならし、銅器、きせる、やすり等の各分野に転業、転職して伝統の金工技術の継承をつづけ、有余年後の今日の燕産業発展の源泉となっております。


鎚起(ついき)銅器づくり

元禄年間(1668年-1704年)蒲原平野唯一の霊峰弥彦山の麓の海岸にある間瀬村に銅山が開鉱され、ここから発掘された銅鉱石により作られた銅材により銅器が作られていました。

間瀬鉱山の銅材は伸張性が強く良質であり、仕上がり色も緋色銅が特色で、銅器づくりに適した材料であったと云われていました。

この鉱山は大正初期に休鉱し、大正10年閉山となりました。燕にあった銅吹所の間瀬屋は今は営業が違っていますが、家系は代々つづいて現存しております。

その後明和年間(1764年−1772年)に奥州から銅器職の藤七が燕に移住し、鎚起金工法が伝えられ鍋(なべ)釜(かま)金たらい等が作りはじめられた。その工法が導入される中で、燕在住の初代玉川覺兵衛がその金工法を特に習得されて、以来その工法を基本として美術工芸の方向に研究が進められたといいます。

この工法は一枚の銅板を様々な大小に変形した金槌(かなづち)を用いて焼鈍を繰返し、打ち延ばして製型する技術で、継ぎ目のない品物をつくる鍛金工法であります。

三代目玉川覺兵衛時代から工芸品としての技術が本格的に進められ、四代、五代、現代と玉川家は、代々高度な鎚起(ついき)銅器鍛金技術の改善に日夜研鑽されて、美術工芸品としての領域に達せられ、近代的多様化時代に対応した製品が製作されております。

またこの長い年代に亘り、代々多数の徒弟の育成指導にあたられ銅器業界の発展に寄与された功績はまことに大きいものでありました。なおその製品技術の美術的評価は全国各方面を始め、海外の各国の博覧会に出展され、国際的にも高く評価されておりました。

この伝統ある金工鍛金技術による鎚起(ついき)銅器は、現在湯沸、水差、香爐、花瓶、茶器、床飾品等の製品づくりで継承され、昭和33年新潟県無形文化財として指定を受け、さらに通商産業大臣より伝統工芸美術産業の指定をうけました。その技術の継承はその美術的価値感を高められて、老舗の暦代玉川家の六代目の葛ハ川堂社長玉川政男は、世紀の新時代に向かって近代感覚と高度な技術技能を発揮して、この貴重な鍛金技術の保全と美術的存在の高揚に努めておられます。

明治、大正、昭和の年代に活況を呈した銅器業界も近代的文化環境生活の変化向上により大正年代から普及されたアルミ製品の進出により、家庭生活からは銅製品は姿を消し、一時30数軒あった業者は他産業に転換され、現在では葛ハ川堂を中心として、技術習得自営業者により技術の保全と工芸品としての製品が作られております。


鈩(やすり)工業

元文年間(1736年−1741年)福島県会津から移住してきた中屋平右衛門が、鋸(のこぎり)鍛冶職人として自分が使用する鋸の目立用として、鈩(やすり)をつくったのが始まりであったと伝えられています。

それ以前の宝永4年(1704年)に宇佐美傳次郎が鈩(やすり)を作ったと云う説もあるがさだかではありません。

江戸末期の文政年のころには燕市(旧太田村)在住の田巻弁吉と云う人が「弁吉やすり」の名称で日本一のやすり目立人として、その品質が評価されたといわれます。

当初鈩(やすり)の本体及び目立てとも、手づくりであったが、明治末期ころには目立て用機械が導入され機械生産の第一歩でありました。

その後大正年代に本体の製作機械(ハンマー機、ロール機)等が導入されて量産化が可能となりました。

又鈩の焼入工程には夫々の工場には独特の技能をもって研究され、その段階で微妙な差異があり、材料製造業者、学界の方々の指導を受ける等大変苦労されたと聞いておりました。

和くぎが消滅となった明治後半期においては釘職人の転職の吸収に、やすり業界は大きく貢献したと云われており、明治時代から大正時代に入り業界は機械生産により量産形態が確立されるに至りました。

昭和年代に入るや満州事変、支那事変等による軍需産業が盛んになり、業界は鉄工やすり、組やすり等各種のやすりが開発され、昭和12年ころは業界は最盛期で、年間生産が4,000万本の実績を挙げ、満州、支那、東南アジア方面にも輸出され、業者も100社、従業員も600人以上となりました。

以来戦時中に引続き終戦までは好況でありました。

戦後は軍需産業の消滅によりその需要は激減し、他産業へ転換する業者も多かったが、依然600万本程度の生産能力を維持して、この構造不況に対処するため「越後ヤスリ工業組合」を設立して、各種やすりの開発に努め、業界の進展を期しておりましたが、機械工具の合理化、高度な技術による精密機械の進出、電気鋸等により需要減退の影響が大きく、今後は近代経営による機械化合理化に取組み、業界のおかれている現況打開を図りその活路の展開が課題となっています。


煙管(きせる)工業

昭和年間(1764年−1770年)において燕在住のかざり職人星野玄司と云う人が、江戸に行って「住吉張りきせる」の作り方を習得して帰郷して燕で煙管(きせる)を作ったと云われているが記録がないため不祥であります。

安永年間(1972年〜)に燕に移住してきた青山藤七と云うう人のところへ、福島県会津若松から“かざり職人”錺屋市右ェ門と云う人が弟子入りして「村田張りきせる」の作り方を伝えたと云われています。

依てこの同じ時代に星野の住吉張りと、青山の村田張りの二つの流派の製法が、それぞれの技法で競い合って、煙管(きせる)が広く作られるようになったといわれております。

大正9年(1920年)ころには手動エキセンプレスから動力用プレスと、金型による工程改善等で本格的に機械生産態形となり量産化が確立となりました。併せてクロームメッキ加工により従来の真中磨き製品より商品価値が良くなり、昭和12年の全盛期には日産60,000本の生産量となり、満州、台湾、朝鮮へ輸出し内外にその市場を求め、全国一の煙管(きせる)生産地として発展するに至りました。

昭和13年(1938年)に燕煙管工業組合を設立し、併せて共同作業場も併設して、業界の組織化と団体協調をもって業界の発展を期しました。

しかしながら戦時情勢が強化となるに従い、軍事統制経済下におかれ、使用材料の真中材は軍需資材用に転用のため使用制限につづいて、きせる製作も遂に製造禁止となりました。

代用品として鉄クローム製が一部作られましたが、これがまた資材等入手困難となり、時代の要請に従い軍需へ転換するに到りました。

昭和年の終戦後は煙管の製造に復活し、組合も際発足して全国に販売を再開し業界の発展を期したが、物不足と朝鮮動乱により原材料の高騰に業界は苦況に立たされました。

その上戦後巻煙草が急速に普及され、刻み煙草は専売局では生産減となり、引続く需要減退が遂に生産中止と云う決定的打撃をうける事態となりました。

江戸時代から300年有余の歴史とともに親しまれてきた刻み煙草は永遠に消え去る事態となり、業者は全部他産業に転換し現在は細々と土産品用或は工芸品として維持されておるにすぎません。

現在は煙管製造関係資料一式は燕市無形文化財として、燕市産業史料館に保存管理されております。

又煙管作りの製法技術は工芸技術として、昭和52年燕市無形文化財に指定され、技術技能者2名の方に製作技術が保全され、技能後継者に継承されています。


金属洋食器工業−1
洋食器のはじまり

和釘づくり以来幾多の業種や分野にわたる変遷を経て、長い年代に培ってきた金工技術により、大正年(1914年)洋食器の手づくり見本が作られたのが始まりで本格的に手づくりながら生産が開始される段階となりました。

大正4年(1915年)から手作り生産をはじめられたが、製品を作る毎日が手さぐりの繰返しの状況の中で仕事をつづけられました。作る人達は工夫をしながら、作り方や治工具の改善をはかり当時は日1人で10本から12本程度の仕上り数でありました。

大正9年(1920年)には動力用電気が導入されて機械生産が可能となり、当時手づくり生産をしていた軒ほどの家内工場では、短期間に機械が設置され、洋食器業界はいっせいに量産化態勢となり、初めて工場経営者として親方から工場主となり、これからは企業経営者として、事業資金の調達、製品の工程改善、品質の向上と管理等について、産地として組織指導を強く要請され、大正15年燕洋食器工業組合が設立されました。

以来各業者はその市場を求め、懸命な努力をもって開拓して業績の拡大を図ってまいりました。

当時の商売は国内は主として商都大阪が中心であり、輸出は神戸の内外の商社での取引が主体でありました。

欧州各国に再輸出されたオランダ貿易が当時の輸出業績拡大の最大の要因でありました。

また東南アジア方面は神戸の商社、大阪の問屋商人が主体であり、中国は大坂川口地域にあった華僑商行、その他名古屋横浜の商社を含めて、戦前の昭和8年から昭和15年の最盛期は年間業績に示された通り、内外市場とも順調に進展して國家政策の輸出振興に大きく貢献するに至りました。

昭和15年以降軍需産業が拡大されるに従い統制経済がきびしくなる一方で、七・七禁令によって洋食器は技術保存企業若干残して製造禁止となり、業者はそれぞれの設備と技能により選択した軍需産業へと転業して行きました。

昭和20年終戦時は各産業ともすべて壊滅状態でありましたが一日も早く平和産業への移行が急がれておりました。幸い既存の設備はそのままに残っており、残存手持材料も有効適切に利用し、比較的早く生活用品を主体とした製品の生産が再開されました。

洋食器業界は生産工場の設備を序々に行い、洋食器生産の復活も進展し、進駐軍向特需洋食器の共同生産を続け、自由貿易の再開を待機しておりました。

また工業組合は輸出貿易振興協議会を結成し、関係当局との連携を図り、業界共々自由貿易の再開を待機して、今後の業界の発展と戦後の復興を期しておりました。


洋食器の手づくり工程

大正4年(1914年)から動力用電気が導入された大正年までは、手づくり用具として台切り鋏(だいきりはさみ)せん金槌(かなづち)銑(せん)鈩(やすり)きさげ等を用具として用いて毎日仕事をしながら工夫、改善をして手づくりでつくられたものであります。手廻しのエキセンプレスの大型や小型ができてからは、人力が多少楽になったようでありましたが、かなりきびしい労働でありました。

手づくり工法の概要

工程の区分 使用用具及び加工方法
@材料の切断 ・板材に荒取り寸法をケガキして代切り
鋏で切りおとす(現在の地抜き工程)
A皿部・板部の板のべ

・材料を軟かくするために焼頓を繰返し、大きなせん金鎚で金床の上で叩きのばす(現在のロール工程)力仕事のため外職人の加工が多かった

B首首の板よせ

・板のべと反対に焼鈍をして首の部分を叩きよせる

C半切・柄切り

・皿の部分及柄の部分の必要外の部分を台切鋏で切りおとす(現在の半切工程)
・柄及皿の部分を削りや仕上げする前に平に叩きならす

D柄の部分と皿部分のならし

・皿の部分と柄の部分を成形する前に削りと仕上げをする
@銑(せん)は凸凹面の荒削りをする
Aきさげはコバ部分や細い部分の削りに使用する
B細目のやすりで仕上げる(現在の平磨き工程)

E皿及柄部分の削りと仕上げ

・皿部を木型と鉛型の間にはさみ合わせて金槌で叩いて成形する

F皿おこし ・この工程は後に皿の金型と大型のエキセンプレスで成型した(現在の坪起し工程)
G柄の部分成型

・柄の部分は当時は無地で成型は丸みをつけて、柄の先端に爪の模様を彫刻した型に柄の先端をあてて金槌で叩い て爪の模様の部分を叩きだす
・後に大型エキセンプレスを人位で横車を一気に手廻しで回転して立心棒を落下してその圧力で加工するようになった

Hコバすり仕上 ・銑(せん)又はきさげでコバ部分を荒削りして細めのやすりで仕上げる現在のコバすり工程)
I磨き仕上 ・たらいの中に水、表面に木板をわたして、木板の上で木炭に水をつけて品物にあてて磨き出す

洋食器の機械生産

大正9年(1920年)動力電気が導入されて、機械設備が可能になり、当時手づくりの自営業者は10軒程度でありました。このうちいち早く機械生産に着目した人は燕町上町在住の自営業者小林乙蔵(著作者の実父)と小林鉄之助(著作者の実兄)の親子でありました。

当時は機械購入資金は銀行から借りられる状況でなく、あくまでも個人の裁量で用意をしなければならない多額の資金の投入であり、大変な決断を必要としたものでありました。

東京の機械業者に注文して完成した機械は洋食器製造の専用機械で、業界第一号機として業界中では注目され、洋食器機械生産による量産化の第一歩となったものであります。

@1000型フレキシユンプレス(柄の模様・皿の成形)
A7吋型横型ロール(皿部・柄部の圧延)

居宅を一部工場に改造して設置された機械は暫くの間内密にして使用されていたが、機械の故障にはどうにもならず、駅前の早川鉄工所に修理依頼することになり、はからずも此の時初めて公開されたものでありました。

早川鉄工所では修理をすると共に同機械の構造性能等の設計図を作成し、長岡の田中豊七と云う機械技師と共同研究や指導により、短期間に於て同様の専用機が開発製造されました。

当然他の自営業者はいっせいに機械設置されて、洋食器業界は機械による量産態勢が短期間に確立されるに至り、将来の発展の基礎要因となりました。

此の専用機械のフレキシユンプレス、模型ロールは、今日までの長い年間に於て、その性能や構造が研究改善されて現在に至っておりますが、70年後の今日においても原型の形状は維持されて、いまなお洋食器製造工場に設置されております。


クロームメッキの改良発明

洋食器手づくり当時は結城正克が東京でニッケルメッキを学び、ニッケルメッキ工場を操業しており、その後笹川大作、捧信、丸山電鍍工場が引続いて開業されていましたが大正13年頃町の鍍金業者有志は東京鈴木平三郎より生地がけクロームメッキの技術の指導習得を受け操業されておりました。

しかしながら生地がけクロームメッキは電流の通じが悪く、表面のメッキの付着状態が不均衡で品質が安定せず、メッキ加工時の不良品発生が多くてコスト高となり常に問題となっていました。

この生地がけクロームメッキの問題解決のため、当時洋食器製造、研磨、メッキの一貫作業で生産していた小林鉄之助が大正14年(1425年)前記結城メッキ工場でメッキ技師をしていた小川義雄を招き共同研究を重ねること1年近くに及び、その研究の結果ニッケルメッキ下づけしてクロームメッキを加工する工法で、此の問題点が解決するに至りました。

このニッケル下づけクロームメッキ工法を、業界に広く開放して、洋食器、きせる等産地メッキ加工製品の品質向上となり、地場産業の進展に大きく寄与したものであります。

当該メッキ工法は小林鉄之助名義で中央メッキ業界に発表され、中央のメッキ関係文献に記載され、業界全般に衆知されたものであります。


燕洋食器工業組合の設立

第一次世界大戦後の大不況で、国際経済は悪化し、政府は国際収支改善のため中小企業輸出振興対策として、輸出組合法、主要輸出品工業組合法を施行しました。

この法令により全国の中小企業の22業種が指定となり、この中に新潟県では金属洋食器が只一つ指定となりました。

燕洋食器業界は当時既に機械化による量産が順調に進展して、その生産能力、工場経営理念等について、輸出業種として充分対応できる産地態勢が確立していました。

業界は速やかに組合設立準備に入り、組合設立認可申請も大正15年5月全国で8番目、新潟県では1番の設立認可となり、ここに中小企業組織化の第1号として燕洋食器工業組合が誕生しました。

併せて共同施設として、政府の補助対策事業により共同伸銅所が開設され、洋食器主原材料が共同施設により製造され組合員への供給業務が開始されました。

組合は輸出振興基本対策に基き、秩序ある輸出市場の確立と輸出品の検査業務を実施し、品質の向上、企業の安定を図り輸出基盤の確立を致しました。

昭和15年ころから戦時体制経済がきびしくなり、遂に洋食器は製造禁止となりました。このため業者はそれぞれの事態に対応して、軍需産業に転業の止むなきに至り、昭和20年の終戦を迎えることになりました。

昭和32年米国の対日輸入制限による対応策として、全国組織の日本輸出金属洋食器調整組合が設立されました。従って組合業務は新組合に移行することとなり、以後本組合は共同伸銅所の材料供給業務を継続して組合の運営を実施することになりました。(昭和33年12月日本輸出金属洋食器工業組合に改組された)

業務の主体が伸銅材料供給であったが、戦後洋食器業界はステンレス素材に全面的に移行したため、伸銅供給業者は完全に廃業の止むなきに至りました。

共同工場は速やかにステンレス圧延設備に切換えて、中央ステンレスメーカーのステンレス素材の圧延とステンレス材供給業務を実施してきたが、ステンレス素材が商品化して直販されるに至り、併せてきびしい経済状勢の中に組合運営が困難となり、大正15年より70年近く続いた組合も平成4年3月をもって解散いたしました。


初代玉橋専務理事の見識

今から年前の昭和11年(1936年)発行の燕洋食器工業組合の資料に初代専務理事玉橋一事は当時に於て、今日の洋食器業界の状態を既に予見された見解を発表されております。

業界の先覚者が将来をいかに適格にとらえておられた事かと、深く感銘いたし、その足跡が偲ばれる思いが致します。

当時の私は20歳のころで、大阪での奉公勤めを終えてきた許りの業界の新人として、玉橋専務理事に師事をさせていただいた一人であります。

氏の豊かで大らかな人格と、思慮深き見識に深く敬意を表し、昔年大変お世話になった事を改めて謝意を表します。

初代玉橋専務理事の見識(抜粋)

燕に洋食器を開始したるは欧州戦乱方に酣なる時にあり。草創の際、何事の準備もなく、専伝統的手工によって、多量の製品を海外に供給したるが識者(玉橋一事)当時既に、前途有望なる物産たることを認めるとともに戦乱終息の後、必然に来るべき世界経済戦に備えんとせば、速やかに工業の合理化を断行するの必要ありとし、万難を排して之が実現に努力したる結果、製品の面目茲に一新したる折柄、国際愛語の大勢に際会し、確実に輸入を妨遏するを得たり。

今や工業組合同人は、新に産業報国を標語として、協力同心研究改善に邁進しつつあり、欧米市場に異彩を誇る日も近き将来にあらんとす。  昭和11年5月


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